セブと日本の歴史を勉強しよう!セブ観音の修復

セブスポット情報

セブ島に観光旅行に来る日本人のほとんどが、セブ島と第二次世界大戦の関係について詳しく知りません。現在は開発されてITパークになっているあの区画が昔は滑走路で、そこから神風特攻隊が飛び立っていました。本日は歴史のお勉強。「セブ日本人会」から大変興味深いポストがありましたので、一部抜粋してご紹介します。



マルコポーロホテル内のセブ観音

フィリピンは親日国家として知られていますが、第二次世界大戦が終わった直後の状況からすれば、想像さえできないことです。今からおよそ80年前の太平洋戦争において、フィリピン諸島は激戦地となりました。日米両軍は激しく戦い、日本人戦没者は51万人超。フィリピン人の戦没者数は111万人以上といわれています。
戦後75年という長い歳月が過ぎた今、太平洋戦争に関する歴史認識はさまざまです。ここで、その是非を問うことはしませんが、日本人にとってもフィリピン人にとっても不幸な時代であったことは間違いありません。二度とあのような戦禍を繰り返さないためにも、現代の平和が多くの犠牲者の屍の上に成り立っているという事実を、私たちは忘れるべきではないでしょう。
その慰霊のシンボルとして親しまれてきたのが、セブ島のマルコポーロホテルの一角に建つ、台座を含めて高さ4.6メートルに及ぶ青銅像「セブ観音」です。
毎年8月15日には、日本とフィリピン双方の遺族をはじめとして多くの人々が集い、セブ観音慰霊祭が執り行われています。慰霊を行うとともに、戦時中にセブで何があったのかを語り継ぐことを目的としています。

セブ観音と神風特攻隊

マルコポーロホテルの厚意によって建立を許されたセブ観音がある場所は、戦時中セブが米軍の空襲にあった際、迎撃に飛び立ったゼロ戦の一機が撃墜され、墜落した地点です。
ここからほど近い中腹に、「日の丸陣地」と呼ばれる日本海軍の拠点が置かれていました。上陸した米軍は日の丸陣地に襲いかかり、激しい戦闘の末、多くの日本兵が命を落としています。
かつては、このあたりに六基の卒塔婆が立っていました。それらを一カ所にまとめ、永久碑として建立されたのがセブ観音です。かつてセブで戦ったセブ海軍部隊や陸軍挺身第3、第4連隊所属の元日本軍人有志によって建立されました。
セブ観音が見据える先は、かつてセブ基地があった場所です。現在は経済特許区ITパークとして繁栄している場所には戦時中、日本海軍の航空基地があり、神風特攻隊がここから出撃しました。神風特攻隊が実戦に投入されたのは、フィリピンの戦いが初めてです。
特攻機による戦死者第1号として敷島隊の関行男大尉が有名ですが、実は関大尉より4日早くセブ基地から特攻機として出撃したまま未帰還となった機がありました。大和隊の久能中尉です。関大尉が「特攻第1号」と呼ばれることにちなみ、久能中尉は「ゼロ号の男」と呼ばれています。



フィリピン人はなぜ日本人を憎悪したのか?

当時、日本にとってフィリピンは防衛上の要でした。マリアナ沖海戦の惨敗とサイパンの失陥後は、米軍の日本本土への攻撃をなんとしても止めることが、日本軍に課された使命でした。
サイパンが落ちたからには、その飛行場から飛び立つ米軍機による本土空襲を防ぐ手立てが、もはやありません。やむなく日本軍は、フィリピン・台湾・南西諸島から日本本土を連ねる戦に沿った地域を「絶対国防圏」と定め、ここでなんとか米軍の動きを止めようと必死に抗いました。
なかでもとりわけ重要な拠点とされたのが、フィリピンです。フィリピンが米軍の手に落ちるということは、石油などの南方資源ルートが完全に断たれることを意味していました。そうなればもはや日本の敗戦は、避けようがありません。
どれだけ大きな犠牲を払ってでもフィリピンを死守しようと、大本営は残り少ない戦力を集め、フィリピン戦線に投入しました。日本軍はフィリピンを守るための戦いに、まさに国運を賭けたのです。
しかし、このことは日本側の都合に過ぎません。フィリピンの人々からすれば、フィリピン人とはなんの関係もないにもかかわらず、自分たちの暮らす地を一方的に戦場とされたわけですから、理不尽以外のなにものでもありません。
ただ家族と平和に暮らしていただけなのに、突如日本軍が攻めてきてはアメリカに代わって彼らを支配し、その後、米軍の上陸によって再び戦火に包まれ、フィリピン人の多くが巻き添えとなって命を落としました。多くの犠牲者を生んだことは、フィリピン人の心に日本という国家、および日本人に対する激しい憎悪を残す結果となりました。

日本軍が太平洋戦争を戦い抜くためのスローガンとなった「アジアの解放」は、フィリピンでは当てはまりませんでした。なぜなら当時、米議会の承認によってフィリピンは1946(昭和21)年の7月に独立する予定になっていたためです。
苦労してようやく独立までのカウントダウンが始まっていたにもかかわらず、頼んでもいないのに日本軍がやって来てフィリピンから米軍を追い出すと、アメリカに代わって統治を始めたのです。フィリピンにとって日本軍は招かざる客であり、まさに侵略者として受け止められました。

日本軍によるフィリピン支配は、アメリカに深く依存していたフィリピン経済に壊滅的なダメージを与えることになります。突然、アメリカから物資が一切入ってこなくなったことにより、フィリピン人の生活は大混乱に陥りました。だからといって日本には、フィリピンに物資を供給する国力などありません。
物資の不足は激しいインフレを呼び込み、フィリピン人の暮らしぶりを圧迫しました。
日々の暮らしにも困り果てたセブ住民を、さらなる苦難が襲いました。日本軍による「徴発」(強制的に物を取り立てること)です。セブに配置された数万の日本兵の食糧は、セブ住民からの徴発によってまかなわれていたのです。
「徴発」という言葉からは、それほど過酷な印象を受けません。されど実際は日本軍の敗色が濃くなるにつれて、その実態は略奪へと変わっていきました。徴発を任された日本兵は食糧の提供を拒む農民をときに脅し、ときに暴力をふるい、無理やり食糧を奪っていったのです。
日本軍政下にあってセブ住民の暮らしぶりは貧窮を極め、家族が食いつなげるだけの食糧を確保するだけでも精一杯でした。家族が生きる糧となる、その貴重な食糧を日本兵に傍若無人に奪っていかれては、たまったものではありません。
なんらかの労役に駆り出される徴用も、セブ住民にとっては大きな苦痛でした。徴用を拒否して殴打されることもあれば、反日思想者として憲兵に逮捕されることもありました。
「憲兵隊の門を一度くぐった者は出て来られない」という言葉は、セブの各所でささやかれました。
こうしてセブ住民の憎悪の眼差しは、日本兵に集中したのです。

日本兵に対する失望と怨嗟は、セブの若者たちにゲリラの戦士となる決意をさせるに十分でした。
フィリピン人にとっては、米軍こそが圧政を敷く日本からフィリピンを解き放ってくれる「解放軍」でした。解放軍である米軍の援助のもと、日本軍への抵抗を続けるゲリラ部隊に身を投じることは、フィリピン人にとっての正義でした。ゲリラは日本の占領政策を妨害するために、日本軍の徴発や徴用に応じた同胞を、対日協力者と見なして射殺しました。セブの住民はゲリラの報復を恐れ、日本兵による徴発や徴用を避けるために、日本兵が近づくだけで逃げるようになりました。すると日本兵は、自分たちの姿を見て逃げ出すフィリピン人をゲリラの一味と見なし、容赦なく射殺しました。
ゲリラ兵と日本兵の双方から射殺される恐怖に、セブの住民は脅えました。
日本軍政下の過酷な圧政と日本軍によって甚大な犠牲(実際には米軍の空爆などによる犠牲者も多くいた)が生じたことは、戦後まもなくの頃におけるフィリピン人の対日感情を、憎悪で満たしたのです。

憎悪から友愛へ

戦後にフィリピンで行われたBC級戦犯裁判の結果を見ても、フィリピン人の怒りがどれほど深かったのかを感じ取れます。訴追された151人のうち、実に9割以上に当たる137人が有罪となり、そのうちの6割に当たる79人に死刑が宣告されました。
戦後、日本の植民地から独立した国で対日戦犯裁判を行ったのは、フィリピンだけです。その事実だけを見ても、他の東南アジア諸国とは異なり、フィリピン人の対日憎悪には相当根深いものがあったことがわかります。
しかし、戦後の日本とフィリピンの関係を追いかけてみると、フィリピン人の対日感情が憎しみから赦しへと次第に転換していったことが見てとれます。
その契機となったのは、1953年7月にフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領が、死刑囚56名を含む日本人戦犯105名全員の恩赦を行ったことです。モンテンルパ刑務所に服役していた105名は全員、日本への帰還を果たしました。
ちなみに、戦後の混乱期に行われた戦犯裁判には問題も多く、冤罪で死刑判決を受けた日本兵も多く含まれていました。無実の死刑囚を救おうとする運動が日本本土で起き、戦犯の悲哀を歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』がヒットしています。
キリノ大統領がフィリピン国内から寄せられる猛烈な批判を覚悟してまでも、「赦し」を与える決断をするきっかけとなったのは、この哀切を帯びた『あゝモンテンルパの夜は更けて』を聴いたからと伝えられています。

実はキリノ大統領自身、まだ幼かった子供3人と妻をマニラ市街戦の折に日本軍に殺害された過去を背負っていました。個人的な憎悪を乗り越え、恩赦によって戦犯全員を日本に帰したことは、日本国民に大きな感動を与えました。
キリノ大統領の英断は、憎悪一辺倒だったフィリピン人の対日感情を「赦し」という大河へ導く初めの一滴となったのです。
今日のフィリピンは間違いなく親日国家です。セブにおいて日本人とわかるだけで、多くのフィリピン人の歓待を受けることも珍しくありません。このような状況を、戦後まもなくの反日感情にあふれたフィリピンから想像することは、とてもできません。戦時中に日比両国の間に横たわっていた憎悪は、およそ70年余の時を経て友愛へと切り替わりました。
戦時の怒りを現在の友愛へと変えたのは、キリノ大統領に端を発する「許し」の精神であったことを、私たちは忘れるべきではないでしょう。「許し難きを許す」という英断こそが、戦時と今を結ぶ架け橋となったのです。(セブ日本人会facebook投稿より抜粋)

セブ観音の一部が盗難される事件がおき、その修復費および防犯費用を募っているとのことです。
リゾートとしてのセブ島だけでなく、歴史の接点からセブ島を見つめ直すことも私たち日本人にとっては必要なことかもしれませんね。

マルコポーロのセブ観音はホテル警備員に言えば誰でも参拝できるようです。ただ、せっかくマルコポーロホテルを訪れるのであれば、マルコポーロのビュッフェ(昼食1人1440ペソ(約2900円)最新の価格は要確認)はセブの中でも1,2を争うほど美味しいと評判なので、ぜひごはんも一緒に堪能してください。

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